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北陸で花開いた高い絵画文化

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四季耕作図 久隅守景 17世紀  国指定重要文化財 石川県立美術館蔵
狩野探幽門下四天王の一人だった守景が金沢にいた時期に描いたと考えられる。次第に創造性を失いつつあった江戸狩野派を離れ、農民の暮らしを自由に描くことによって狩野派にはうかがい知れない新生面を開いた

北陸で花開いた高い絵画文化

伝統工芸や美術鑑賞を目的として北陸を訪れる方々は少なくありません。ただ、その多くは「金沢」や「高岡」などのように、「点」を目指します。しかし、歴史的な流れを見れば、広く北陸各地に芸術や文化を醸成させる素地があったことや、江戸時代に花開いた日本を代表する名に負う絵師の多くが、直接、あるいは間接的に北陸の影響を強く受けていたことが分かります。

※ここに掲載する絵画は各美術館が収蔵していますが、常に展示されているものではございません。展示期間につきましては各美術館へお問合せください。

一大文化圏だった北陸


町並立体復原地区や館跡に往時の繁栄ぶりが偲ばれる一乗谷朝倉氏遺跡。三方を山に囲まれたこの地に、織田信長に滅ぼされるまで、100年以上にわたり一大文化が栄えた

北陸は都に近かったこともあり、かつて京都に次ぐ一大文化圏を形成していました。古代は高句麗や渤海との交易で、江戸時代には北前船の物流拠点として栄えた経済的な豊かさ、さらに自然の美しさ、浄土真宗や山岳信仰などの興隆によって仏画・仏像など多彩な絵画彫像に触れる機会が多かったということも高い文化を育みました。

「画聖」とうたわれる長谷川等伯はせがわとうはく が生まれた能登・七尾では16世紀、能登畠山氏統治のもと華やかな畠山文化が、また越前では戦国大名朝倉氏のもと朝倉文化が栄華を極め、それぞれの地には京から多くの文人墨客が招かれています。こうした豊かな文化的土壌も長谷川等伯や岩佐又兵衛いわさまたべえ岸駒がんくら優れた絵師を輩出させた要素といえるでしょう。

国宝の数々を今に遺す北陸ゆかりの絵師たち

北陸には多くの絵師が訪れ、足跡を残しています。
  長谷川等伯は晩年、「 雪舟せっしゅう 五代」を名乗るようになりますが、室町時代を代表する水墨画家、雪舟の没年(1506年頃)と等伯の生年(1539年)から考えて等伯が雪舟に直接絵を学んだとは考えられません。しかし、等伯の養父・長谷川宗清、その父と考えられる無文(無分)が北陸を訪れた雪舟の弟子・等春から学んだとみられ、等伯は雪舟から数えて5代目(雪舟、等春、無文、宗清、等伯)となる自分を宣言したのでしょう。

江戸幕府の重要な仕事を次々と担った「江戸狩野派」の天才絵師、狩野探幽たんゆう は長谷川等伯のライバルだった狩野永徳えいとく の孫であり、また、富山城主も務めた武将佐々成政さっさなりまさ の孫と伝わります。この探幽の高弟である久隅守景くすみもりかげは加賀藩の庇護を受け、数多くの作品を残しています。国宝「納涼図屏風」(東京国立博物館所蔵)も金沢城近郊の自宅で夕涼みする家族の姿を描いたものといわれています。


陳希夷睡図 長谷川等伯 石川県指定有形文化財 16世紀 石川県七尾美術館蔵
樹下で睡眠をとる仙人を描いた水墨画で、等伯40歳代の動向を知る上で大変貴重な作品


能登の海岸線には等伯の代表作「松林図屏風」を思わせる松並みが続きます

石川県七尾美術館

近代日本の美術界に受け継がれた北陸のスピリッツ

一説には金沢に墓所があるといわれる俵屋宗達たわらやそうたつは桃山から江戸時代にかけて活躍した絵師で、「琳派りんぱの祖」と称されています。その生涯は不明な点が多く、墓所の真偽も定かではありませんが、「伊年いねん」と記された俵屋ブランドは当時、大変な人気でした。この「伊年」印の草花図屏風が北陸に数多く残っています。宗達の後継者とみられる俵屋宗雪そうせつ が加賀藩の御用絵師を務めるなど縁があり、金沢ではかつて「俵屋の草花図屏風を嫁入り道具にする」と言われるほど人々に愛されていました。

明治期、岩佐又兵衛や岸駒を絶賛した東洋美術史家フェノロサの助手を務めていたのは、後に日本美術を海外に紹介する 岡倉天心おかくらてんしんです。天心の父・岡倉勘右衛門は、福井藩士として横浜で外国人相手の貿易商を営んでいました。こうした環境で培われた英語力によって、天心は日本の芸術を海外に発信できたのです。こんなところにも北陸と絵画の興味深い縁を見ることができます。

北陸を代表する絵師-その1 長谷川等伯

長谷川等伯は天文8(1539)年、能登・七尾に生まれました。父は七尾城主畠山氏の家臣奥村氏と伝わりますが、染色業を営む長谷川宗清に養子となりました。絵に親しむようになったのは仏画をよくした養父の影響とみられています。

等伯が能登を離れ、上洛したのは30代半ばです。当時、日本の美術界は狩野永徳率いる一門が圧倒的な勢いを示しており、等伯のような地方出身絵師が参入するのは難しい状況でした。しかし等伯は千利休らとの交流で人脈を広げ、やがて豊臣秀吉から絵を依頼されるまでに昇りつめていきます。一方で、先妻や息子の久蔵に先立たれ、さらには利休と、大切な人との死別の連続でもありました。試練を乗り越える心の強さは持って生まれた武士魂のなせる業だったかもしれません。

国宝中の国宝といわれる「松林図屏風」( 東京国立博物館所蔵) は日本海の荒波が打ち寄せる能登の浜を題材にした作品といわれます。等伯の心の中には終生、故郷の風景があったのでしょうか。「松林図屏風」を脳裏にオーバーラップさせながら、能登の海岸を眺めるのも一興です。

北陸を代表する絵師-その2 岩佐又兵衛


福井県立美術館[常設展示室]

人間臭い描写の人物画で「浮世絵の先駆者」と称される岩佐又兵衛は40代から50代にかけての全盛期を福井で過ごしています。

父は織田信長配下の戦国大名、荒木村重です。村重が信長に謀反を起こしたため一族は殺されますが、当時2歳の又兵衛は落城寸前に救出され、母方の姓・岩佐を名乗って絵で生計を立てていきます。

又兵衛が越前北の庄(現在の福井市)にやってきたのは40代初め。福井藩主・松平忠直の招きにより、藩の注文品を制作するためと思われます。又兵衛はこの地で約20年間、精力的に制作活動を行い、「 龐居士図ほうこじず」「和漢故事説話図」(福井県立美術館所蔵)など多くの代表作を残すのです。


和漢故事説話図 近藤師経と寺僧の乱闘 岩佐又兵衛 17世紀 福井県指定文化財 福井県立美術館蔵
「和漢故事説話図」は日本や中国の故事・説話・物語を各々12図に描いた作品。福井時代後半、50代の作品とされ、又兵衛の円熟した画境を示すものといえる

北陸を代表する絵師-その3 岸駒

富山出身ともいわれる岸駒は江戸時代後期に活躍した絵師です。諸派を折衷した覇気のある画風に特徴があり、とりわけ「岸駒の虎」と賞賛されるほど、虎の絵で名を馳せました。しかし、岸駒が生きた時代、生きた虎を見ることはできませんでした。そこで岸駒は中国から虎の頭や脚を取り寄せ、緻密に観察してリアルな虎の絵を描くことに成功したといわれています。富山市佐藤記念美術館には岸駒が参考にした岸家伝来の虎の脚のミイラが所蔵されています。岸駒の絵画に対するひたむきな情熱と観察眼を如実に示す証拠の品といえるでしょう。


富山市佐藤記念美術館


虎前脚後脚(金田昌子氏寄贈)富山市佐藤記念美術館蔵


琵琶行図 岸駒 1781年 富山市佐藤記念美術館蔵
岸駒は、安永の末年、画業をもって身をたてるべく、金沢から京にのぼる。本図は、上洛直後の作。本図のような中国画に範を求めた細密な描写の作品により、顧客をつかんでいったのであろう


虎図 岸駒 18世紀 石川県指定文化財 石川県立美術館蔵
岸駒生涯の題材ともいえる虎を雌雄一対で描いており、対象をクローズアップしつつ、その周囲を抽象的に処理する手法は、宋・元時代の中国画や宗達派の絵画を学んだ後に得られたものと考えてよさそうである


石川県立美術館

日本の絵画文化を築き上げた絵師たち。後の世になって注目されるようになった彼らの足跡は意外と残っていません。その少ない記録の中からでも、一地方であった北陸とゆかりのある絵師が実に多いことが分かります。文化芸術への理解が深い風土は、今もしっかりとこの地に息づいています。そのような視点で北陸の各地を訪ねると、新しい発見がたくさんあるでしょう。


伏龍羅漢図 狩野芳崖 1885年 福井県立美術館蔵
フェノロサに見出され、狩野派的な描線を残しながらも西洋画法を取り入れ、近代日本画の基礎をつくった芳崖の代表作のひとつ。二人を結びつけたのは福井藩士の息子で、日本の近代美術の父と称される岡倉天心だ


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