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戦国乱世を強く生きた姫たち

戦国の乱世を駆け抜けた多くの武将。彼らを陰で支えたのが、その妻たち。特に北陸に拠点を構えた武将たちの妻には、さまざまなエピソードがあり、NHK大河ドラマの登場人物にもなっています。2002年『利家とまつ ~加賀百万石物語~』でヒロインとなったまつと、2011年『ごう~姫たちの戦国~』の主役である江、そしてそして江の母であるお市の方と江の娘である珠姫、さらには織田信長の娘で前田利家とまつの子・利長の正室・永姫えいひめを軸に、戦国乱世の世界での姫たちが生きた姿、そして後世に残した伝統などをご紹介します。

戦国乱世を強く生きた姫たち

『利家とまつ』で松嶋菜々子が演じたまつ。天文16年(1547)生まれで、利家のいとこにあたります。実父の死去後、利家の父・利春の養子となり、永禄元年(1558)のとき利家に嫁ぎます。当時 利家21歳、まつ12歳。以来「かぶき者」と称された夫・利家をもり立て続けました。

まつは二度にわたり前田家の危機を救っています。最初は天正11年(1583)。賤ヶ岳しずがたけの戦いのとき、利家は豊臣秀吉と敵対した柴田勝家につきます。しかし利家は敗走。そのときまつは秀吉と越前(現在の福井県)で出会い、和議を図り夫の危機を救いました。利家の死後は仏門に入り芳春院ほうしゅんいんと号し、嫡男の利長が家督を継いでからも良妻賢母ぶりを示します。豊臣秀頼の後見人を命じられ、大坂城に詰めていた利長が父の葬儀のため金沢に戻った慶長5年(1600)が二度目です。利長は徳川家康への謀叛むほんの嫌疑をかけられてしまいます。まつは軍備を整え交戦しようとする利長をいさめ、大坂へ弁明の使者を送り、「侍は家を立てることが第一、この母を捨てなされ」といい自らを人質とするように指示します。その後15年にわたり江戸に住み続け、死の3年前になりようやく帰国を許されました。

まつがいなくては加賀藩もなかったかもしれません。さらには、今も金沢に伝わる伝統文化・芸能の数々も存在し得なかったといえるでしょう。そのためか現在に至るまで市民からの人気を集め、毎年6月に開かれる「金沢百万石まつり」のメインイベント・百万石行列では有名女優がまつ役を演じ、毎年誰が選ばれるかが注目を集めます。さらに金沢の代名詞といえる兼六園は、五代藩主綱紀をはじめとして、歴代藩主が手をかけて造成した加賀百万石の大名文化の象徴。そのいしずえを築いた利家とまつの功績にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


毎年6月に開かれる金沢百万石まつりのメインイベント・百万石行列


金沢市尾山神社にあるまつの像

若くして亡くなった悲劇の姫


金沢を代表する伝統工芸・加賀友禅

そして、まつが江戸に赴いた際、前田家に嫁ぐように約束され、のちに輿入れしたのが珠姫です。彼女は二代将軍となる徳川秀忠の次女で、母は江。江は織田信長の妹・お市の方の娘です。慶長4年(1599)に生まれた珠姫。翌年にはのちの加賀三代藩主・利常との結納を交わし、わずか3歳で金沢城に輿入れして14歳で結婚しました。

政略結婚であったものの夫婦仲は非常によかったといわれます。しかし前田家は百万石という最大規模の外様大名だったため、幕府の情報が漏れることを恐れた珠姫の乳母が五女出産後に珠姫を隔離。寵愛が薄れたと思った珠姫は24歳の若さでそのまま衰弱死してしまいます。大変悲しんだ利常は菩提寺として天徳院を建立、これは現在も金沢市小立野こだつのにあります。

また、珠姫の輿入れは大変な規模で行われ、江戸から数百人の人たちがお伴として来て、そのまま現在の兼六園近くに長屋を設けて住みつきました。人数が多いことから、江戸の文化も流入したと考えられます。珠姫の死後は江戸に帰ったものの、五代藩主綱紀の時代にはこの長屋の近辺に京都から招いた彫金師を住まわせました。また京都の陶工が来たときもこの長屋近辺を宿舎にするなど、珠姫の輿入れが江戸文化と京都の美術工芸の伝来に貢献、ひいては優美な加賀友禅や、武具の装飾などに使われた加賀象嵌そうがんの誕生に寄与したといえるかもしれません。

高岡を開いた夫を陰ながら支える

そして二代藩主利長に嫁いだ永姫。天正2年(1574)に織田信長の四女として生まれ、7年後利長の正室となります。まつのように歴史の表舞台に立つことは少ないものの、利長が家康に謀叛の嫌疑をかけられたときは、まつとともに一時的に人質になるなど夫を陰ながら支えました。

夫と仲はよかったものの子宝に恵まれず(利長自身の実子は1人のみで早世)、「どんな女でも良いから夫の子を産んでほしい」と言っていたとされます。その後利長は異母弟の利常を養子にして家督を譲り、現在の高岡で隠居生活に入ります。

利長は高岡で鋳物を振興し、街の礎を築きました。夫の没後、永姫は剃髪し金沢に戻ります。その後利常は利長の菩提寺として瑞龍寺を建立、これがのちに国宝となるのです。

過酷な運命をたどった戦国一の美女

珠姫の祖母であり江の母で、まつと同時代を生きたお市の方。夫・兄の死去など、北陸に縁のある姫たちの中では最も過酷な運命にさらされたといってもいいかもしれません。

戦国一の美女といわれたお市の方は、織田信長の妹(他説あり)として有名です。生年は天文16年(1547)といわれ、永禄10年(1567・他説あり)には兄の命令で近江(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚し、織田家と浅井家は同盟を結びます。夫婦仲はよく、長女茶々(のちの淀君)、次女初、三女江という三姉妹に恵まれました。元亀元年(1570)に信長が浅井家と縁の深い越前朝倉氏を攻めたため同盟関係が解消。天正元年(1573)、長政は信長に敗れ自害、兄のもとに帰りますが、信長が討たれ紆余曲折を経て天正10年(1582)に柴田勝家と再婚、北の庄(現在の福井市)に入ります。それでもなお勝家と秀吉が敵対し、賤ヶ岳の戦いで敗れると夫とともに北ノ庄城で自害、波瀾の人生の幕を引きました。

お市の方が一時期を過ごした福井県には、いろいろなゆかりの場所があります。代表的なのが、福井市の柴田神社。勝家を主祭神とし、お市の方をまつるほか境内にはお市の方の3人の娘をまつった三姉妹神社もあります。また勝家とお市の方の菩提寺・西光寺も福井市にあり、お市の方の墓があります。


柴田勝家とお市の方がまつられた柴田神社に隣接する柴田公園(左)。初と京極高次が眠る常高寺。現在の建物は平成13年に再建された(中)金ヶ崎城は別名敦賀城とも呼ばれ、今は桜の名所として知られ、ライトアップもされる(右)

信長を伯父、秀吉を義兄、家康を義父に持つ姫

そして珠姫の母・江。2011年の大河ドラマの主人公に選ばれた彼女は、戦国という時代に翻弄されながらもしなやかにたくましく生き抜いた人物。信長を伯父、秀吉を義兄、家康を義父に持ちます。

お市の方と浅井長政の三女として、江は天正元年(1573)に生まれます。長政は同年に小谷城おだにじょうの戦いで信長に敗れ命を落とし、お市の方は柴田勝家に嫁ぎます。その後勝家が越前の守護となり、江は上の姉・茶々と下の姉・初とともに、幼少時を福井で過ごしました。賤ヶ岳の戦い後、茶々は秀吉の側室となりますが、初と江は政略結婚を強いられることになります。江は12歳のとき従兄弟である佐治一成のもとに嫁ぎますが、小牧・長久手の戦いで一成が秀吉の側につかなかったことから離縁させられます。その後秀吉の甥(のち養子)秀勝のもとに嫁ぎます。娘をもうけるものの、文禄元年(1592)に秀勝が病死。再度秀吉のもとに戻ります。

転機となったのは再々婚。文禄4年(1595)、徳川家康の息子でのちの二代将軍・秀忠に嫁ぎ、正室となります。秀忠は6歳下でした。その後秀忠は正式な側室を持たなかったように夫婦仲は悪くなかったとみえて、のちの三代将軍家光など二男五女に恵まれました。

江の姉、初の夫の京極高次は若狭城主となり、その地方に三姉妹ゆかりの地があります。初が夫の死後建立し、自らも葬られた常高寺じょうこうじ、江戸初期に築城されて明治初期に大部分が焼失した小浜城址などのほか、敦賀の金ヶ崎城跡は、お市の方が夫・浅井長政の謀叛を信長に知らせたという「小豆袋」の逸話が伝わる場所です。

戦国~江戸時代初期を生きた姫たち。それぞれが残した物語や伝統が、北陸にはあります。5人の姫の足跡を、ぜひたどってみてください。

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